無人ヘリコプターが起こす物流革命の衝撃
あるところに遠距離恋愛を始めたカップルがいた。男は自分のことを忘れさせまいと、毎日のように手紙やプレゼントを女に送った。配達人はそれをせっせと女に届けた。すると1年後にどうなったか。女は、配達人の男性と結婚した。
といった冗談があるけれど、これはもちろん単純接触効果を示唆したものだ。ザイアンスの法則ともいわれるこれは、接触回数が増えるほど好感度が高まる事実を示している。「遠くの一番より、近くの二番」とは嫌な言葉であるものの、真実かもしれない。
そしてこの冗談が成り立つためには、当然ではあるものの、配達「人」でなければならない。男と女にくわえ、配達人なる第三「者」の存在が不可欠だ。
昨今では、この配達人が活躍する機会が増えている。平成24年度の宅配便の数は35億2600万個におよび、前年を上回った(PDFの関連資料)。5年前(32億3246万個)から約3億個も増えている。最近では個人売買の流行に加え、インターネット購入、メール便などの普及がさらにその増加に寄与している。
この個人宅配市場をかつて切り開いたのはヤマト運輸であり、故・小倉昌男さんだった。役所嫌いで有名な小倉さんは規制や慣例をもろともせず「お客のため」という一点でさまざまなサービスを開始していった。
精悍な顔つきで知られた「闘う経営者」を知ったのは、私がまだ大学生のころだった。大阪の片隅にある図書館で氏の『経営学』読んで驚愕した。個人間のモノを動かすだけで莫大な付加価値を生むと理解したこの経営者は、お客という人民を社会革命に動員することで日本の産業構造自体の転換を狙っていた。それはまさに物流革命ともいうべきもので、私たちが当たり前と思い疑いもできない――誰もが手軽に荷物を送れて手軽に受け取れる――生活そのものだった。
ヤマト運輸はそのために主要取引先の商業宅配事業から身を引いた。1979年、その当時に最大顧客の1社だった三越について「高価な家具や時計を買わされた。ロシアから輸入した絵画も、別荘地も買わされた。フランスのベルサイユ宮殿のツアーをはじめ、三越主催の海外旅行に五回も参加を強制された」(『経営学』13ページ)こともあったし、三越が遊休としていた板橋センターについて「ヤマト運輸はいろいろな荷主の仕事をやっているから活用できるだろうと言われ、年間六千六百万円の賃貸借契約を無理やり結ばされた」(『経営学』14ページ)こともあった。これが同事業からの撤退を決断させ、氏は宅急便ビジネスに賭けていく。
そこから個人宅配市場に挑戦し続けるさまは感動的ですらある。また、氏は運輸省を揺さぶっても新サービスを開発し続けた。有名なのは1983年のPサイズにかかわる事件だろう。Pサイズとは2キロまでの軽量貨物のことだ。当時、運輸省が同社に認可を与えるのが遅れていた。同社は「いつものことだが、運輸省は塩漬けにするだろう」(『どん底から生まれた宅急便』154ページ)と見越して、意図的に見切り発車で新聞広告を展開する。そのあと、発売前日に「運輸省の認可が遅れているため、発売を延期せざるをえなくなりました」と大々的に広告を展開した(!)。この戦術はてきめんで、運輸省はすぐさま認可を与えた。
個人宅配市場はこのように誕生し、そして順調に発展してきた。繰り返すと、それは配達人の活躍の賜物だった。
そしてここにきて、配達人を不要とする、二度目の革命ともいうべき事態が起きようとしている。
资料来源:日経ビジネスオンライン
转载时间:2015年04月09日
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责任编辑:北京秦藤